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2025/04/20  [PR]
 

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私にはこの酷暑でも黒スーツで過ごす鬼のような上司がいる。あなたは彼に命じられた肉体労働に疲れ果てた様子でソファーに正座をして緑茶を啜っている。似合わない腕捲りなんかしているあなたの前に躍り出ると、存外な称賛が返ってきた。
「華やかですね。珍しいじゃありませんか、さくまさん」
浴衣がお気に召したのか、あなたは裾の動きを目で追っている。この白地に赤い花の浴衣に出会えて良かった。
「今日は近所で結構大きなお祭りが催されるので、紛れてみたんですよ。ベルゼブブさんも如何ですか?」
実家からくすねてきた黒と灰の縞の浴衣を取り出すと、あなたは直ちに立ち上がり五指を備えた人間の色に変わった。
「仕方ない、さあ着付けて下さいよ」
その自信はどこから来るのか。私は慎重に言葉を選んだ。即ち「ノリノリじゃないですか」。
脱がせて着せて折って伸ばして帯を結んで、折よく戻ってきた上司に今日お祭りがあると告げると容易に外出許可が出た。あなたに下駄を差し出すとき中学生も帰ってきて、誰かが足りないと気づき事務所を見渡すとどういうわけか上司の左手が血糊に濡れていた。何にせよ静かなのは好いことだ。あなたの機嫌も良い。
あなたは私に手を伸べた。
「参りましょう」
あなたの手を取ることは最早容易い。私を受け入れて欲しいと思うから。
「さくまさん」
「はい?」
しかし上司がおもむろに口を開けるとあなたの動きが止まった。
「おみやげ」
「はあい」
息を吐き出すと若干の戦慄を紛らわすように強く私の手を握り階段を下るあなたの手が私より大きいのがうれしくて頬がゆるむのを許してね。決してあなたの歩みに遅れないから。
空の青さは一層清々しく、小風は袖をはためかす。梅雨も去れば緑はいよいよ夏の装いだった。街角の瑞々しさは私の気負いを助長する。私の足取りの軽さといったら時間を飛び越えるよう。
太陽も今日は殊更眩しく、あなたの髪の毛のふちがきらきらしているのに目を奪われるのは私だけではない。ただし私は忘れていた、あなたの横にいる私も見られる対象になってしまうことを。あなたと一緒に歩くというのはこういうことかと納得する気持ちもありながら、あなたが男前だからと達観するような心持ちになるは経験値が足りない。あなたはさすがに注目されることに慣れているようで面映ゆさに耐えられず周りを見回す私の視線を捕まえては言う、「お似合いですよ」。
あなたの言い方は少し語弊があるように思われ、人ごみが途切れたときあなたの左耳に囁く。
「ベルゼブブさんは分かってないです。あなたにそう言われる方がずっと恥ずかしくてうれしいから、フォローになってないんですよ」
あなたは意外な顔をした。それから薄い唇を結ぶから私は恥じらいを取り落としそうになる。
「それでは、今少しこちらへ」
あなたの力のままに道沿いから縁石を越えて木々のほうへ導かれていく。まばらな人の声、遠くなる屋台の喧騒、川の流れる音、時折ざわめく木の葉、草を踏む匂い、あなたの左手。
「でも、それは本当のことで、あなたに嘘はとても言えない」
既に妄想に興じていた私は咄嗟に何の話か判断が付かず、自失していたふりをした。
「さくまさんだって、ご自分がこのベルゼブブを惹きつけているのをしかと自覚すべきです」
あなたは特別だから、簡単な構造の私は自惚れてしまいそうだよ。あなたは待ちわびたような手つきで浴衣の背を引き寄せると私の右手を気遣わしい両手で包んだ。
「貴方は私に相応しいです」
残った左手でその金髪を小突けばいいのかそれとも握られた手にもう一重添えればいいのかわからなかったから、皺を直す振りをしてあなたの肩に触れた。
直ぐさま重力は失せ拍動は色を帯び、遠くに星が瞬くのを見た私は虚空に融け始める。
あなたの目だけが冷たく脳裏に亀裂を入れるもただ甘い味が充ちていく。差し出した手も足も最早戻ってこないが後悔はない。いつもと違う手触りの背中が狂おしい。
耳元で下駄の音が賑やかに反響していた。

8月27日

公道の方へ戻ると日暮れを控えた空がよく見えた。
「もう日が暮れますね」
「いくぶん涼しくなって参りましたな」
夏になるのがこんなに早いなら、今日があとどのくらい残されているのか検討もつかない。
「夜には花火も上がるんですよ」
あなたと見たいと言わなくても、あなたは再び私の手を取るだろう。猜疑心の強い私が保証の言葉をいらないと思うのは、いま離れない右手と左手が他の誰にも分からない約束だから。
提灯に火が灯る。蛙が喋る。鈴虫が唄う。人波がさざめく。青ざめた光は未だ私を揺るがすし、生温かい風に逆らうこともできないけれど、戸惑うことはない。
あなたは隣に居るもの。



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